説教の要約「二人のイエス」

2022年4月14日

2022年4月3日礼拝説教要約「二人のイエス」マルコ15:6−20

主イエスに十字架の判決がくだされる場面である。特に受難物語を読む時に大事なことは、「あなたはどこにいるのか」と聖書から問いかけられながら読むことだ。讃美歌21-306番「あなたもそこにいたのか」という黒人霊歌は、2000年前のパレスチナで起こったイエスの十字架刑の現場に「あなたもそこにいたのか」と問いかけながら歌う。歴史的な事実として私たちがその場にいることはない。しかし、聖書を読む時に、群衆を満足させるために真実を曲げてしまうピラトに、自分たちの思い通りに人々を扇動する祭司長たちに、たった数日の内に大歓迎したイエスを「十字架につけろ」と叫ぶ群衆たちに、圧倒的なローマ軍の力をバックに一人の人間を侮辱し、痛めつけるローマ兵たちに、私たちは自分たちの姿を見る。私たちも自らの内に聖書に登場する人々と同じ罪の根を持っていることを認めないわけにはいかない。

今回この箇所を読み暴動のおり殺人を犯し投獄されていたバラバのことを思った。十字架刑で処刑されるはずだったバラバは釈放され、何の罪も犯していないイエスが十字架で処刑される。バラバ・イエスとメシア・イエスが交換される。有罪と無罪がここで入れ替わる。聖書で「交換する」という言葉は、「和解する」という言葉と同じだ。イエス・キリストの死と復活によって神と人間との敵対関係が、正しい関係に回復されたことが「和解」である。和解とは、神の子イエス様の命がと罪人である私たちの命が交換されたことなのだ。

イエス様は「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と言われた。身代金とは、奴隷を買い戻し、自由にするお金のことだ。マルコはイエス様自身が、その身代金になったと告げている。

自分が誰かの身代わりになることを考える。子どものために我が身を投げ出す親の姿が想像しやすいかだろうか。身代わりは、換言すれば「愛」である。人間の罪の嵐が吹きあれる場において、静かに、一言も発することなく、バラバの身代わりとなるイエスという存在を通して、愛の業がここに進んでいることを、バラバの物語は私たちに告げているのだ。

この劇的な交換劇の当事者となったバラバはこの時何を思い、どんな振る舞いをしたのか。そして彼がまた過激な政治活動に戻ったのか、どんな人生を送ったのかを私たちは知ることはできない。しかし、主イエスの「十字架の死」が、バラバの新しい命となったのは確かであり、「バラバ」という男にとって、イエスが処刑され、自分は釈放されたこの日の出来事は、バラバにとって一生忘れられないことだったに違いない。

「バラバ」とは、「アッバの子」という意味だ。主イエスは「アッバ、父よ」と祈られた。主イエスも「アッバの子」であった。そして私たちも「アッバの子」の一人である。私たちも主イエスの十字架の身代わりによって罪を赦され、新しい命を与えられた者だ。バラバ・イエスのその後の歩みはわからない。しかし、主イエスの愛をいただいた私たちがこれから先どのように生きるのか。それは私たちの課題であり、決断できることだ。バラバの物語は、あなたはここからどう生きるかを私たちに問いかけている物語でもある。

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