どれほど熱心に種を蒔いても、その数値は一パーセントの壁を越えることがない。岡本亮輔氏の『キリスト教入門の系譜』を読み終え、まず胸に去来したのは、日本の宣教地としての特異さだった。

「恐ろしい沼地」に挑んだ先人たち 

 本書でも取り上げられる遠藤周作の『沈黙』において、転向した宣教師フェレイラは日本を「恐ろしい沼地」と呼んだ。何を植えても根が腐っていく、抗いようのない湿地帯。本書は、その広大な沼地に挑み、言葉を尽くしてキリスト教を説こうとした先人たちの足跡を、丹念に紐解いていく。

 内村鑑三や新渡戸稲造といった無教会の巨人たち。貧民窟に身を投じた賀川豊彦、そして苦難の中から光を綴った三浦綾子。私はこれまで知らなかったカトリックの知識人、岩下壮一や戸塚文卿ら。さらには先日天に召された棋士・加藤一二三氏まで取り上げられる。本書に登場する人々は、それぞれの時代において、絶望的なまでの「少数派」であり続けた。知った名もあれば、初めてその重責を知る名もあったが、共通しているのは、彼らが皆、日本社会という土壌に「翻訳された言葉」を必死に打ち込んできたという事実だ。現代の項に目を移せば、親交のあるキリスト新聞社・松谷氏の名も見える。

 重層的な歴史の先に、今を共に歩む人々の顔が重なり、一つの問いが再び首をもたげる。

「これだけの歴史を経て、なおキリスト教信仰がこの国に届いていかないのはなぜか」

 その答えは、安易な分析の中にはないのかもしれない。著者である岡本氏は、内村鑑三の晩年のエピソードを引きながら、一つの希望を提示する。超少数派の信仰は、時に寂しく、孤独だ。しかしその力は、説教や礼拝だけでなく、静かに読み継がれてきた「書物」の中に、そして一人の読者が一冊の本から受け取った「言葉」の中に、確かに息づいているのだと。

牧師として言葉を紡ぐ意味

 翻って、私自身の営みを思う。 この拙いブログもまた、一人の浅学な牧師による「言葉」の集積に過ぎない。数多ある名著のような重厚さは当然ない。広大なネットの海を彷徨う、泡沫のような言葉かもしれない。

 それでも、「牧師 ブログ」という検索の網を伝い、誰かがこの場所に辿り着く。ならば私はここを、いま、この時を生きる者の言葉を紡ぐ場所にしたい。先人たちがそうであったように、孤独な読者の一人に届くことを信じて。沼地のような日常に、今日も小さな言葉の楔(くさび)を打ち込んでいく。

↓一日一回応援よろしくお願いします(^^)
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村